2009-11-28

電飾ツアー

あ〜、まもなくクリスマスですね。
世の中には豊かな家庭があるもんです。
きっと子供たちの喜ぶ顔が見たくってがんばって装飾したのです。
世の中の不況だ不況だっていってる声なんかここには聞こえません。
ただ、明るい家族の笑い声がそこいらじゅうの窓から聞こえてきそうなだけです。
この通りは…

家々の間が電飾でビッカビカのところを発見しました。
道を挟んでお隣さんもお向かいさんもピカピカ。
サンタさんがやってくる、シャンシャン♪とした音がどこからとも無く聞こえてきそう。


いやぁ、それにしてもすごい!お店とか商店街じゃぁなくって普通の家ですよ〜
ディズニーランドのエレクトロニカルパレードがそのまま家になったようだ!

ビビって手が、ぶれとります。

2009-11-25

いいわけ



朝、いつものお米屋さんに玄米を買いにいったら
レジのむこうの私の大好きなカレンダーにこんなコトが書いてあった。


《言い訳がうまくなるほど向上への道が閉ざされていく》


【解説】
失敗をしたり、人の期待を裏切った時、素直に自分の非を認めるのは勇気のいることです。
「自分は悪くない」と、ついその原因を他に求め、言い訳をしたくなります。

言い訳は他人に対してだけではありません。「あれをしよう、これはやめよう」と
強く決意しながら実行できなかった時、「こんな状況だから仕方がなかったのだ」などと
理由付けするのは、自分自身に対する言い訳です。

自分の心の中のことですから、誰に咎められることもなく、簡単に言い訳が通りますが、
この時、向上の目を自ら摘んでしまっていることに気付かねばなりません。

自分に非がある以上、失敗は素直に認め、他人には謝罪を、自分には反省をして、
その辛さをバネにより良い生き方を目指すのが本当の知恵というものです。

目先の楽を求める気持ちが言い訳をさせるのだと知り、
それらを捨て、勇気を持って自分の至らなさに直面し、
一歩ずつ向上の道を歩んで行こうではありませんか。


ふむ、
いい訳ッて便利、だけど結局その場しのぎなのかもしれない。
そのいい訳によって不快になることも、させてしまうこともあるしね。
素直になって、反省心をもつのは大切なことやね。

2009-11-22

おりがみ


お店にちびっ子がやって来て、なんとも和む時間を過ごせて
一緒に折り紙したりやら、小さな彼女が弾くピアノをきいたりしていたら、
自分の小さな時の自分を思い出した。

小さな小さな私は、二歳前にもっと小さな弟ができて、
“お姉ちゃんだからね、お姉ちゃんだからね〜”と言って育てられた。
だから、三歳を前にして二歳十ヶ月の身で自力で幼稚園前まで歩いて通っていた。(保育園のように親が送り迎えするということはありえなかった。まぁ、今にして思えばすごく近所で、大した距離ではなかったろうけど、その頃の私には毎日が大冒険だった。)
お姉ちゃんだから、そんなのは朝飯前なのです。
いきなりやって来た年子で双子のお姉ちゃんなんですから。


お姉ちゃんは優等生でいたかったのです。
いえ、優等生のつもりでした。
我が家は転勤家族、幼稚園の年長さんから小2までは東京近郊の巨大な団地に住んでました。
団地内がABCDと区分けされていて、その中を循環バスが走っているほど。
我が家はC地区で、私はA地区の先にあるピアノ教室に通ってました。
時々はバスを使ったり、歩いていったり。
ある日のことでした。
ピアノのレッスンが終わった小さな私はポクポクと家に向かって歩き始めます。
どこらへんでだったのか憶えていません、プ〜としたのです。
これがいけなかった。
見る見るミが出てきてしまったのです。
本人も予期せぬ出来事。
その日のお召し物は、忘れもしません、ピチピチの赤いショートパンツ。
そこからしっかりミが顔を出し、引力に逆らうこと無く下へしたへと下がっていくのです。
大物の小さな私は動じません。(これが私の本質かな、アハハ)
何くわぬ顔をして、A地区B地区C地区と団地の中のメインロードを歩いて家までこぎ着けました。
あぁ、私の後ろ姿を見たやさしいご婦人方、どうして声をかけてくださらなかった…
泣きそうなおもいを胸に、我が家のテラスハウスにくっついている猫の額ほどの庭に誰にも見られぬように小さくうずくまり(このまま家には絶対に入っては行けないと幼心に思っていた)パートに出ている母が帰ってくるのをひたすら待った。

弟たちとともに帰ってきた母。
とんでもない状態になっている私をはやし立てる弟たち。
すっと、お風呂場に抱いて連れて行ってくれた母。
その後の記憶なし。

あ〜、なんでこんなコトを書いているんでしょう。
いえね、なんとも笑える思い出なんです。
この出来事を、ものすごく鮮明に憶えている私なのですが
これがコンプレックスになった訳でもなく、
辛い思いででもなく
なんか、暖かい思い出なのです。
この時の母の目線や気持ちッてどんなんだったんだろうなぁッて思って。(母、憶えてないかも…うん、ありがち)
小さな頃の自分を思い出して、ちびっ子には接するようにしています。(子供たちのことが大好きだし、それぞれを一人の人間として尊重しているつもりです)
さて、母の気持ちになるというのはどんなもんなんでしょう。
まだ、実体験が無いためよくわかりません。体験したいんですけどねぇ〜、はかない夢だな今んとこ…
はたして、今世では実現するのでしょうか。
楽しいんだろうなぁ〜

2009-11-14

タラップ


日がかげり始める四時頃から、少し肌寒くなる今日この頃。
部屋に暖房を入れ、お客様の足が少し落ち着くと暖かいお茶で一服。
赤いソファーに腰掛け読みかけの本を開く、すると、お決まりのようにウトウトとしてくる。

ほんのわずかな時間なのだけれど、こんなときにこそ夢をみる。
今日見た夢は、全長がわからないくらい大きな船のタラップが船体に引き上げられている。
そのタラップの上の最後尾に私はいて、二人の子供たちがその前にいる。(いや、手をつないでいるのかな?)
グワぁ〜ッと上がって行くタラップから落とされないようにしっかりと柵を握りしめて、まさに船に着くというところで目が覚めた。

ウワ、なんだろこの夢、
気になるなぁと思って、ラッセル・グラントの夢辞典を開いてみた。
まずは、”船”=船は利益のシンボルです。
あ、”フェリー”もある!=フェリーに乗っている夢、フェリーを見る夢はいずれも努力が報われるしるし。おそらく仕事面
そして“タラップ” =あなたにとって転換期を意味。客船のように周囲が華やいだ雰囲気だったら、前途は洋々。タラップを登る夢なら、進歩が期待できます。

ふむ、なんかイイコト起きるのかな♪

写真はmasumiちゃんが撮ったもの
建物の入り口すぐの左の壁に丸い鏡を貼ったり置いたりすると金運アップになるのです。
ついでに右の壁にはると人気運アップです。
で、水という字に見えるすいじ貝は、家を火の難から守ってくれたり魔除けになると言われています。

2009-11-13

ごほうび


ただ今、脳の本を読んでいるのですが、心に止めておきたいのでここに書いときます。

『脳にとっての”報酬”とは』

脳にとっての『ごほうび』とはどんなものなのでしょうか。
ごほうびや報酬というと、『自分に何かしらの利益をもたらすこと』というふうにとらえがちですが、
脳にとってのごほうびは、利己的な損得の判断よりもっと広く、奥深いものです。簡単に説明すると、
『うれしいと感じること』ということになるかもしれません。これは、自分の役に立つことだけでなく
目的や目標を成し遂げたり、人の役に立ったりすることが脳への報酬となることを意味しています。
 脳神経細胞がもつ3つの本能を思い出してください。脳には生まれながらにして『生きたい』『知り
たい』『仲間になりたい』という本能があります。このうち、『仲間になりたい』という本能は、脳に
『人が喜ぶことが自分にとっても嬉しい』と感じさせます。つまり脳は、人のためになるとき、貢献心
が満たされるときに、それを、『自分にとっての報酬である』ととらえて、機能するようにできている
のです。
 もっとも、人間は置かれた環境などによって貢献心を失い、損得ばかりを重視するようになることも
あります。これは、人間の脳が記憶に基づいて働くためです。
 例えば人と比較して勝ち負けにばかりこだわったり、子供の頃から何事につけ勝つことを強いられて
いたりすると、負けたときに罪悪感を抱き、『他人を蹴落とさなかったので自分を守れなかった』とい
うエピソードが記憶として残ることになります。すると『自己保存』のクセが働いて、『他人を蹴落と
してでも自分を守りたい』『自分だけが得をすればよい』という気持ちが生まれてしまうのです。いわ
ゆる“損得勘定”は、脳が生まれながらにしてもっているものではなく、後天的に身についていくものと
いえます。
競争の助長は、脳が機能するまでの貢献心を、損得勘定にすり替えている傾向があります。当初はもっ
ていた貢献心が『負けるのではないか』という思いにより、なくなってしまうのです。その意味で、い
きすぎた成果主義は、本来脳が持っている力を削ぐことになりかねません。
 実際、みなさんにも思い当たるふしがあるはずです。『自分さえよければいい』という人よりも、損
得にとらわれず『あの人の喜ぶ顔が見たい』『この人のためにがんばりたい』と思える人のほうが、結
課的にあらゆる面で力を発揮しているでしょう。
 これは、脳のしくみから説明できることなのです。社会に貢献しようと言う気持ちで自己報酬神経群
を働かせるほうが、自分のことだけ考えるよりも、脳にとって『よりよいごほうび』となります。さら
に、自分だけでなく広く他人を思いやれることは、それだけ期待できるごほうびを増やすことにもなる
のですから。

photo by masumi

2009-11-12

本当の私って


友人が遊びに来て、おもしろいからやってみて!とおしえてくれた。
自分が働いているところの社長さんが、社員のことをよく理解できるように使っているらしい…
たくさんの人を使ってトップに立つ人には便利なツールなのかもね。
ここに来て、またまた再ブームなの?
従来のヤツと違って
その本質、表面、意思決定のとき、希望としているもの、隠れたキャラクターをおしえてくれる。
ちなみに私はサルなのですが、以前友人に”絶対にペガサスが入っている!”と言われ
案の定そうだった…

ほほう、うちの子はこんなキャラを隠し持ってるんだぁとか
苦手なあの人ってこういうタイプだったのねぇとか
どうしてあの人の行動はああなんだろう?
とかの謎が少し解けるかも。
さ、みなさんもやってみて。

http://www.doubutsu-uranai.com/uranai_chara_5animals.php

2009-11-11

風の強い日に


今日はものすごい風が朝から吹きまくっています。
庭の木々は、すべて風下に向かって頭を足れている。
こんなに風が強い日に外を眺めていると、オズの魔法使いのことを思い出しました。
主人公の女の子ドロシーが愛犬トトと一緒にある日竜巻で家ごと飛ばされてしまう。
そして出会う、脳の無いカカシ、心の無いブリキの木こり、臆病なライオンらとともに
彼らの願いを叶えにエメラルドの都にいるという大魔法使いのオズに会いに行く物語。

すきなんだなぁ〜この童話。
白雪姫にもシンデレラにもあんまり魅力は感じなかったけど、
ドロシーにだけはなりたいと思っていた。(今も、変わらないかも)
ちょうど、今は小さなお家にいて、トトよりもかわいいパウダーがいる。
脳の無いカカシはすぐ側にいるかもしれないし、それは自分かもしれない。
心の無いブリキの木こりはすぐに出会うのかもしれないし、それは自分かもしれない。
臆病なライオンにいつも脅されているのかもしれないけど、それは自分かもしれない。
少女のドロシーはいつも近くにいて私を励ましていてくれているのかもしれないし、それは、私かもしれない。
美しくみどり色に輝くエメラルドの都に、いつかたどり着くことができるかもしれないし、実はこの緑あふれるココがそうなのかもしれない。
全ての願い事を叶えてくれるオズの魔法使いには、すでに出会っているのかもしれないし、これから出会うのかもしれないし、実はそれは自分なのかもしれない。

子供の頃に思っていた童話が、すこし時間がたってから読み返してみると
いろんな見え方がしてくる。

2009-11-09

COSMOSからの金言


どこからともなく、
いろんな人がやって来たり
いろんな人から連絡が入ったりしてくる。
こんなことや、http://2012.aid-info.jp/
こんなコトを教えてくれる人たちだったりhttp://oozora.way-nifty.com/kami/
ココんとこ、脳の話をしてくれる方が多い。

私は本を読んだり、人の話を聞いていたりするのが大好きで
自分の話を聞いてもらうより
人様の話を聞いている方が、その中に様々な情報があるのよね♪と思って楽しい。(それが仕事だし…笑)

先日読んだ本の中で
世の中の最初の最初はどうやって始ったのか?
みたいなことが書いてあって
性別もわからない生命態から、人間へとなっていった過程には
そこに”意識”が存在するかどうか?だったみたいなことが書かれていて
ほほぅ、なるほど…とおもった。


その本を読み終えてから、
宇宙は偶然ではなく、ある一定の秩序から生まれ
『宇宙には精神がある』と、唱えたアインシュタインに共鳴し、
ノーベル平和賞受賞者7人を会員に持つブタペストクラブ会長のアーヴィン・ラズロ博士が書いた
COSMOSを久しぶりに手に取って、たまたま開けた頁にこんなコトが書いてあった。

〜恐怖が慢性化してしまうと生物としてのバランスが元に戻らなくなり、恐ろしい思考や感情がたえずつきまとって、戦うか逃げるかのストレスで常に身動きが取れなくなってしまうのです。こうなると、必然的に行動も限られてしまいます。キャンダス・バートが記しているように、『恐怖にとらわれている状態では新たな情報をつかむことはできない』のですから、『罰と脅しは、実は学習プロセスを抑制してしまう』のです。
 慢性的な恐怖の情緒は子供時代にあることが大きく、大人になる頃にはそれが世界観の一部になってしまっています。そのような恐怖に気づくことができるなら、つまりそれに縛られていることを認め、必要であれば他人の助けを借りて克服することができるなら、人生は変えられます。恐怖が招く恨みや欲求不満、怒り、苦痛に代えて思いやりや喜び、感謝を手に入れれば、文字通り別人になれるのです。この変身は、できないこともない、というものではなく、その気さえあれば誰にでもできることなのです。
ときに、言葉だけでは私たちが本当に言いたいことや感じていることを表せない場合もありますが、英語には単純でありながらも深い意味を担える言葉がとても豊富です。たとえば、evil(悪)という言葉の定義は一人ずつ異なっているかもしれません。しかし、それがlive(生きる)という言葉を逆に綴ったものだと気づくと、おそらく今まで思いもよらなかった意味が見えてくることでしょう。悪とは生きることの対極にあるもの。そうすると、悪事を働くことは死の行為になる訳です。そして、それ自体が多くの連想をよぶlove(愛)という言葉はlive(生きる)という言葉とわずか1文字しか違いません。悪が死であるならば、愛は生なのです。
自我に基づいた視点のみから自分を眺めつづけるなら、情緒的・精神的トラウマに伴うストレスや鬱症状は強化され悪化します。前向きに生きるよう自分を鼓舞するための助言として最も奥深いものは、おそらく大昔から伝わる『生き、愛し、笑え』というごくシンプルな金言でしょう。どれほど洗練された言葉で表現していようとも、最先端の科学や意識の研究結果はみんな次のようなことを言っているのです。

肉体面、精神面、感情面で積極的な人生を送りなさい。
愛しなさいーー他人への奉仕という行動を通して。そして。
笑いなさいーーできれば自分自身を。
それが最も効果的でありながら、ときに最も美しい強健さ(ホールネス)と健康への道なのです。

感情や思考が気づきを具体化するエネルギー・パターンであり、それによって健康を損なうことも取り戻すこともできるのだということを、きちんと評価することが大事です。私たちがおのれと世界に抱く気持ちや信念が決定的に重要なのです。それらの限界は私たちの限界、それらの可能性は私たちの可能性なのですから。

もはや、私たちの思考や感情と肉体的な幸福とを切り離すことはできません。



何ぞということが、書いてありまして
私一人で読みふけってるのはもったいないなぁと思い
ちょいと、書いてみました。書くとより頭に入ってくるしね。
これを読んでくださったみなさまの一智慧になりますように。

2009-11-06

ゾウのグラス


先日、大好きなゾウさんのグラスを割ってしまいました。
割れているとは知らずに、グラスを取って拭こうとしたところで右手をざっくり切ってしまいました。
このグラスは、まだお店をするなんてことが現実になろうとは思わなかった頃に
太宰府さんの参道で、『いつかお店をするならこんなグラスでチャイとか出したいなぁ〜』
なんて思いながら買ったものでした。
6個あったものが、歳月とともにひとつ減りふたつ減り…
母方の”島のおじいちゃん”の遺言(?笑)で、
『カタチあるものは壊れる』と聞かされて育ったためか
モノが無くなることにあんまり固執しません。
斬った手もざっくりいってるけどあんまり痛いとは思わない。
こういうところは鈍感な私…
だって、斬れたんだから、多少痛いのはあたりまえだし、血が出るのも生きてるんだからあたりまえ
痛くなくって血がでない方がよっぽど困る…(何ぞと思っている)



このゾウのグラスに始り
私の廻りにはゾウのグッズがあふれています。
大きなもので言えば、ゾウの看板に始り、
ゾウのグラス、ゾウのお香立、、ゾウのペーパーホルダー、ゾウのオブジェ…
あぁ、何個持っているんだろう…
ゾウさんね好きなんですよ。(現在はゾウグッズにはあんまりこってません)
スリランカの海岸でゾウさんに乗った時から。
なんか、すんごい大きいなぁって思って、地上に生きている動物ではなかなか大きい方でしょう?
大きいのでいくとクジラも好きです。これはハワイの海で見た。(乗ってはません)
ゾウさんに乗ったその時の感触(そりゃぁ、たわしの上に座っているようでした。笑)
やゾウさんがいつも見えている目線の高さとかがすごいなぁって思ったのよね。
夏の日に小さな蚊を手のひらでパチンとやっつけちまうように
こんな大きな動物の前では自分達人間なんてちっぽけで
足や鼻でポンッとやられたら一たまりも無いだろうなぁ〜
ってとこが好き。