2007-12-13
サンタモニカ
私は、ほんとに物持ちがよろしゅうて、中学生のころからのミュージックテープを今も後生大事に持っているわけです。(バカやね)捨てきらんと。なんか思い出がいっぱい詰まっているから。
それで、最近また古いカセットテープを引っ張りだしては車の中で聴くとです。店でかけるのは、あんまりねっていうようなのもありますけんね。ここ最近のヒットはRIZで2000年の三月のとある日にShinさんが皿回してるテープ。いや、カッケーんだなこれが。この人がつくるテープっていうか、かけてる間の曲は全部繋がってひとつの作品みたいになる、そんなアイデンティティーがあるんだよな。
車の中でかけてるだけじゃ惜しくなって、今、店でも聴いてる。奥深。
そしてこのShinさん、わたしたちのファッションリーダーやったな〜。十代後半でディスコ、クラブデビューをした私。そんな場所でいつもものすごく変わった格好をしていたShinさん。仕事はその当時全盛だったPersonsの店長。でもプライベートの服はほとんどが、Worlds end。ご存知ですかこのブランド?かのSexPistolsをプロデュースしたマルコムマクラレンの妻ビビアンウエストウッドのブランドです。ロンドンのお店はいつも壁にかけてある時計が反対回りにまわっていて、床が斜めに傾いているお店。土地の名前っていうかお店の目の前のバス停の名もWorlds end。当時日本では、藤原ヒロシさんがよく通っていた、原宿のa store robotにしか置いてなかったんじゃぁないかな〜。
こんな大人たちに育ててもらったわけですよねぇ〜
写真は、GAZENBOになる前のサンタモニカ。お兄ちゃんお姉ちゃんたちに毎夜毎夜いっぱい遊んでもらってました。Shinさんは目だけね。
2007-11-05
バロックミュージック
すこし肌寒くなってくると、無性にバロックミュージックが聴きたくなる。
バロックミュージックに囲まれて生活していた頃。
フィレンツェの山奥、モンテセナリオの”casa del vento(風の家)”という名の家にに住んでいた。築二百年を超える美しい農家。
庭は、かるくにほんの小学校の校庭くらいはある。
持ち主は大学教授を終えたあと法律の分析の仕事をしている中年男性。その人と私はおおよそ一年生活を共にした。
年の違う、そして異国の顔を待つパートナーは、お互いの国で自分のパートナーがどんなに目立つ存在なのかを、お互いに感心し合って見ていた。道を歩けば人が振り返る。
わたしたちは週末毎週のように小旅行へ出かけた。
日本にいるときには箱根や日光、浅草。
イタリアでは、ラベンナ、ヴェネチア、北へ南へと走らせるその車は、日本のスポーツカー。
何もかもが贅沢すぎた。
何も不自由が無いその生活は、あることを私に気づかせた。
私が心を休められるのは、美しい音楽を聴いているときや、日記や手紙を書いている時、数少ない日本から持ってきた本を読んでいる時。
PCのフロッピーを持ってきたけど、入れてみればアラビア文字のような解読不可能な文字の羅列。
友達なんて、近くにいなかった。
彼とも、同じ言語を使うもの同士でさえ意思の疎通が難しかったりするのだから、
正直、最終的に心なんて通い合わなかった。
心の話をする人が近くに欲しかった。
美しい地中海の夏がおわり、
肌寒くなってマントルピースの火に薪をくべていたころの寂しくてたまらなかったころの自分を
バロックミュージックを聴くと思い出す。
どう表現していいかわからない、一人ぽっちの淋しい自分を思い出す材料。
2007-11-03
アンディウォーホールのTシャツ
この前お客さんがバリに旅行するって話をしてて思い出した。
私もバリには行ったことがある。それも仕事で。
もうかれこれ十年くらい前だろうか、友人がアンディウォーホールのファクトリィに出入りしていた、写真家ナットフィンケルシュタインの作品の日本での版権を手に入れたため、彼の作品(写真)Tシャツをつくろうという試みになった。
この作品はかなりの人が目にしてると思う、一番有名なのがタンバリンから顔を覗かせたウォーホールの顔。
こんな美味しいネタ、ほ〜ッておくのがもったいない!Tシャツつくりましょう、私、デザインしますから!
ということで、版権を持つ友人をたずねこのTシャツつくりのスポンサーとともに東京へ旅立った。それも車で。
版権を持つ、コーチャンは日本で初めてゴルチェのパリコレのモデルになった本にもよく出てる美しいモデルの彼女と一緒だった。
ただ写真を撮りにいくだけではもったいない。
毎夜毎夜、ギョーカイジン的な夜の東京を案内してくれる。
ある日は、パリコレ専属ヘアメイクアーチストのお店。ここはガレージのようなお店だった。ガレージのようなその中に入るとたった一つのシャンプー台がおいてある。これがまた、フィリップスタルクかなんかの一点もの。来るお客様は、運転手付き。
ある夜はミュージシャンが新譜を発表する、業界人のみしか入れないホール。
ある夜は、青山にあるクラブ。 ここがすごかった。まず入り口には、おねーちゃんを口説いているTノ内 豊。中へ入るとpopayeの創始者、有名作家、みんな勝手にしゃべったり踊ったりしている。まるでAウォーホーリのファクトリー!
もう、田舎っぺの私はぶっ飛びましたよ。
でね、ナットの作品を手にし福岡に戻ってくるわけです。
でね、せっせとTシャツのデザインして。
安くつくりたいじゃぁないですか。で、当時インドネシアに強い知り合いにたより、そちらでつくろうという試みになったわけです。
インドのジョグジャカルタにある工場でTシャツは作ってもらうことになりました。
とりあえず日本からバリに飛び、その後、小さな飛行機と列車を使っての旅。旅だけど旅行ではなく出張です。
行ってみて思いました。猛暑の中で仕事なんて、打ち合わせなんてあり得ない。頭が回んないのよね。むこうものんきだし。それでもめげずリゾートウエアで打ち合わせしている私。(写真1)
お仕事の依頼時には接待がつきもの。していただきましたよ。現地の型から。
なんか王様の敷地内にたってるお屋敷で。一人一羽ずつのサムゲタン、いとり一個ずつのマグロの目玉。食べれんちゅーに!
あぁ、案の定病院行きになりました。おなかこわしてそのまま風邪引いて。薬もらってるとこね。(写真2)
数週間してTシャツは出来上がってきました。
出来のいいのと悪いののムラがひどすぎる結末となってしまいました。
でもね、出来のいいヤツは、ピッツバーグのアンデゥウォーホール美術館で販売するようになりました。
が、現在私の手元には一枚もそのTシャツがありません。
ま、しかし、ウソのようなほんとの話です。
私もバリには行ったことがある。それも仕事で。
もうかれこれ十年くらい前だろうか、友人がアンディウォーホールのファクトリィに出入りしていた、写真家ナットフィンケルシュタインの作品の日本での版権を手に入れたため、彼の作品(写真)Tシャツをつくろうという試みになった。
この作品はかなりの人が目にしてると思う、一番有名なのがタンバリンから顔を覗かせたウォーホールの顔。
こんな美味しいネタ、ほ〜ッておくのがもったいない!Tシャツつくりましょう、私、デザインしますから!
ということで、版権を持つ友人をたずねこのTシャツつくりのスポンサーとともに東京へ旅立った。それも車で。
版権を持つ、コーチャンは日本で初めてゴルチェのパリコレのモデルになった本にもよく出てる美しいモデルの彼女と一緒だった。
ただ写真を撮りにいくだけではもったいない。
毎夜毎夜、ギョーカイジン的な夜の東京を案内してくれる。
ある日は、パリコレ専属ヘアメイクアーチストのお店。ここはガレージのようなお店だった。ガレージのようなその中に入るとたった一つのシャンプー台がおいてある。これがまた、フィリップスタルクかなんかの一点もの。来るお客様は、運転手付き。
ある夜はミュージシャンが新譜を発表する、業界人のみしか入れないホール。
ある夜は、青山にあるクラブ。 ここがすごかった。まず入り口には、おねーちゃんを口説いているTノ内 豊。中へ入るとpopayeの創始者、有名作家、みんな勝手にしゃべったり踊ったりしている。まるでAウォーホーリのファクトリー!
もう、田舎っぺの私はぶっ飛びましたよ。
でね、ナットの作品を手にし福岡に戻ってくるわけです。
でね、せっせとTシャツのデザインして。
安くつくりたいじゃぁないですか。で、当時インドネシアに強い知り合いにたより、そちらでつくろうという試みになったわけです。
インドのジョグジャカルタにある工場でTシャツは作ってもらうことになりました。
とりあえず日本からバリに飛び、その後、小さな飛行機と列車を使っての旅。旅だけど旅行ではなく出張です。
行ってみて思いました。猛暑の中で仕事なんて、打ち合わせなんてあり得ない。頭が回んないのよね。むこうものんきだし。それでもめげずリゾートウエアで打ち合わせしている私。(写真1)
お仕事の依頼時には接待がつきもの。していただきましたよ。現地の型から。
なんか王様の敷地内にたってるお屋敷で。一人一羽ずつのサムゲタン、いとり一個ずつのマグロの目玉。食べれんちゅーに!
あぁ、案の定病院行きになりました。おなかこわしてそのまま風邪引いて。薬もらってるとこね。(写真2)
数週間してTシャツは出来上がってきました。
出来のいいのと悪いののムラがひどすぎる結末となってしまいました。
でもね、出来のいいヤツは、ピッツバーグのアンデゥウォーホール美術館で販売するようになりました。
が、現在私の手元には一枚もそのTシャツがありません。
ま、しかし、ウソのようなほんとの話です。
2007-10-18
RCがすきでした。
チケットぴあがまだこの世に普及していなかった頃、電話予約というものがこの世にまだ普及していなかった頃。
わたしたちが好きなミュージシャンのチケットを確実にとる方法として手堅いものにデパートの前に前日から並ぶ、というのが基本でした。私も並んでました。朝、チケットを買ってから学校に行ってました。ラジカセに電池つめてそのミュージシャンの音楽聞きながら、一晩がんばって並んでコンサートのチケットを手に入れたもんです。
どうしてこんなにライブが好きなんでしょう。自分でもよくわかりません。最近、本棚の整理をしていたら高校生のときに行っていたライブのチケットがでてきました。どうも何年間かのRC SUCCESSIONのライブを休んだことは無かったようです。今では、ほんの時々スローバラードを聞くくらい。
誰よりも今から行くライブのミュージシャンのことが知りたくって、そのミュージシャンの住所を調べたり、生年月日調べたり。バカだね。今もあんまりやってることが変わってない。
写真はでてきたチケットとサンパレスの前ににみんなで徹夜して並んでいったRC SUCCESSION。このライブですんごいはでなヤツがいるなんだあいつ!私の方がぜったい派手なはず!とにらみをきかせて近づいていったら何の事はない、一緒に行ったイクちゃんだった。19歳の夏です。
2007-08-29
ダチュラ
2007-07-30
TADAMAN
昨日、TADAMANにあった。また、RIZに行きたいよ〜!って行ったら,俺も行きたいよ〜ッて言ってた。(笑)
にわか再結成のOZON BABYのサウンドにTADAMANのボンゴが天にのびるようになっていた。やっぱこの人が叩く太鼓は最高だ。
久しぶりに会って、昔話に話を咲かせながら”そうそう、DJ呼ぶとミュージシャンの人数少なくって盛り上がるしサンセットライブにDJ KRUSHよんだらどうだろう?”って話があったよっていったら、TADAMANNが“ふつうにバンド呼ぶより高いよ!”って言ってた。
そっか、やっぱりDJ KURUSHは偉大な人なんだ。
好みのタイプなんだよな〜この人♡ 以前,すんごく好きでTADA MANに無理言ってKRUSHさんに、電話かけてもらったりしたよなぁ〜 好きになるとつい強引になってしまうんですよね,私って。そしたら、KRUSHさんサイン入りCDはくれるは、お手紙はくれるは、関連グッズはくれるは…うれしかったな。
そんなことを思い出した、昨日のよるだった。
2007-07-13
許されたバター
先日おかげさまでお店の7周年のアニバーサリーパーティを無事に終えました。
当日,たくさんのお花やお酒などをお祝いに頂きました。が,その中に異色のものが… 朝一で届いたそれはクール宅急便。送り主は東京に住むサヨコとキブンさん。ありがたいなぁ〜ッて思いながら,冷やしとかないといけないものだったら…とワクワクしながら封を開ける。中にはサヨコお手製のポーチ、そして乳製品の箱がいっぱい。やったぁ!私の大好きなチーズだ!と思いきやバター、バター、マーガリン,またバター… どんだけ〜〜!キブンさんのお仕事で使ったものかしらん?と考えを巡らす。そこに一通の手紙。
『マコちゃん 7周年おめでとう
バター贈ります。
好きなだけぬってください。
どうぞどうぞ 端から端まで
何度でも何度でもぬってください。
もう怒らないからね。
紀文
マコへ、7周年おめでとーー。
なんか紀文さんから許された気持ち(私まで…)
ポーチ使ってねん。
佐予子
私、爆笑!
いやなぜかって言いますとね、上京して三人で共同生活をして同じ釜の飯を食ってたわけですよ当時。三人とも20代前半。
でね、ある日の朝ご飯のときにね、(その時、紀文さんは無職もしくは転職したばかりで金銭的に余裕がなかったのね。)
三人で食パン焼いて食べてたわけよ。
サヨコと私はチマチマ,細々したした作業が好きでパンにバターをぬるときにも端から端までぴっちりときれいにぬるの。だってその方がとってもおいしく感じる育ち盛り。それに、同じように与えられたものをどんだけ人より多く食べるかの決戦のような毎日だった。
それを見たキブンさん。
“サヨコちゃんもマコちゃんも,マーガリンぬり過ぎ!”
”え〜じゃぁ、キブンさんもきれいに私たちみたいにぬればいいやん!”
キブンさんブチ切れ!!!!
仏の紀文と言われていたキブンさん。そんなキブンサンがブチ切れた一幕があったのです。
20年経ってやっと許してもらえました。
2007-06-21
SKA FLAMES&DETERMINATIONS
時は1996年、第4回めのSUNSETLIVE をひかえた初夏のころ。
それまでは、夏の終わりにあるこのライブといえば、”KAJA&JAMMIN'"と”HARD CORE REGGAE"をよぶのが主流だった。
PUNKあがりでSKA好きの私は仲のいい友人たちからの依頼もあり、ここらでSKAでのSUNSET LIVEをこころみたいと思っていた。
さて、最初に思い浮かんだのが、SKA FLAMES。まずは電話でアポイント。この最初の一本の電話にすごく勇気がいる。かけるのは私だ。その当時よく行っていたAFTER THE RAINのバーテンだったマサヒロや店の同僚のコたちが,背中を押してくれた。“ダメもとでかけたらいじゃん,マコちゃん”って。そう,考えていても事は何にも起こらない。勇気をふりしぼって電話しました。
同じ頃にあるとあることが起こりました。SKA FLAMESのメンバー宮崎さんの友人で、イワサさんという方が西新に”いわさ本舗”というすてきな居酒屋をおもしろ21の通りにオープンしました。しかしオーナーのイワサさんは開店した翌日にあっけなく天に召されてしまったのです。このイワサさんの追悼ライブをしようという事で、SKA FLAMESのみなさんがSUNSET LIVEへ来てくださることが決まりました。ちょっと神がかりな招聘です。
イベントをSKAというくくりで仕上げるには対バンが必要となってきます。考えてもそんなの浮かんできません。 ふらっと十代の頃から仲良しのヨシヅミくんを尋ねてDON'Sへ行きました。ヨシヅミくんにSKA FLAMESをよぶことは決まったけど対バンが見つからないと相談してみました。すると、大阪にDETERMINATIONSというSKAのバンドがいる。同じように大阪でレコードショップDRUM&BASSをしているハヤシくんに紹介してもらったらいいよ。との回答をもらいました。
さっそく、DETERMINATIONSに連絡をとりはれて出演が決定。
新しい形でのSUNSETLIVEが形作られていきました。
この’96年のSUNSET LIVEでSKA FLAMESとDETERMINATIONSは初めて出会うこととなりました。二見が浦の地で。
あれから十年。あのときのようにSKA FLAMESとともにDETERMINATIONSの高津直由が福岡で同じステージに立つ日がやってくる。
心からこのイベントの成功を祈っている私です。
2007-04-25
クイズ番組
もうかれこれ十年くらい前でしょうか。TVのクイズ番組にでたことがあります。それも大晦日から元旦にかけての深夜。TVQの何周年記念とかいうクイズ番組でした。友人からFAXで詳細を教えてもらい、ボビーを誘っていきました。場所は博多スターレーン。番組側は1000人集めたかったみたいでしたが、6〜700人くらいしかいなかったように思います。
クイズが始まりました。まずは知能、運、体力に別れてくださいとの指示。私とボビーは体力を選びました。やったゲームはドッチボール。それも円型タイプ。丸い円の外側から、ボールを中の人に向けて投げられて、ボール当てられた人が負けってヤツね。ここでかるくボビーは敗退。TVに写ると思ってすんごく短いショートパンツにエナメルのリボンの付いたブーツでおめかしをしていった私は、生き残ることができました。(それでかどうかはわかんないけど)次は知能班、運班、体力班で生き残った人たちが2グループに分けられました。私は何となくひとつのグループに入りました。これまたセーフ!もうひとつのグループははずれだったらしく、極寒の中カキ氷を早く食べた上位何人かが生き残れるというもの。
難なく、たまたま運のよかった私たちは博多スターレーンの横に止まっていたバスに乗せられ、TV局のスタジオに連れて行かれました。スタジオの中は”アタック25”のスタジオみたいになってて、観客の席が五色の色別に縦割りになっていました。奥からつめて座ってくださ〜い、というスタッフの人の声をよそに、私はどうしても手前の椅子に座りたく、そこに腰をかけました。これまたあたり!自分の座った席の色の回答者が勝ったため、その色の席に座っている私たちが今度は回答者となってクイズが始まりました。
大晦日から元旦にかけてのこの番組、もちろん生放送。まぁ、さばけ無さと言ったらすばらしいもので、もともと2時くらいには終わるはずらしかったのですがこの時点で軽〜く4時をまわってました。もう、スタッフ、ゲスト、回答者、みんな顔には“早く帰りたい”というう文字がにじみ出てきてました。
忘れてました、このクイズ一等は百万円です。これにつられていっちゃったんです。ボビーをそそのかして。
この色別の席に一緒に座った春日原から来た女の子、彼女は遅くなると帰りのタクシー代が無いと困ってました。
彼女を含む五人がまたもやクイズクイズ。これが山笠の流れを全部言えとか、五種類の明太子の味を食べて分けろとか、時間もかかる難問ばかり。そうこうしているうちに、TV局側も時間がかかりすぎていることが気になってきたらしく、最後の問題を出してきました。この残った五人の中の誰かが百万円もって帰れるのです。かなりわくわくドキドキしてました。
さて最後の問題”福岡県で六番めに人口の多い市はどこでしょう?” 知るか!んなもん!みんないろいろ答えるけどなかなか当たらない。さっきまでとなりに座ってた春日原から来た彼女が小さな声で答えた“春日市”
“正解です!優勝はあなたです!”
司会者スタッフのうれしそうな顔。そう、これでやっと番組がおわれる。時刻はかるく朝の6時をまわっていた。
わたしですか?なんと私は二位でした。もう一人二位の方がいて、二位の商品は横綱テレビ、三位の商品はパソコン。私はパソコンが欲しかったのでテレビとともに二位を譲りました。パソコン、米一俵、一年分のカップラーメンの目録を手に初日の出を浴びながら家路に付きました。
写真は一番左がボビー、その横が私よ。
この話後日談があります。
2007-04-11
好きなのはロックステディ
ただ今、過去まれにみる風邪っぴきである。熱はでるし咳は止まんないし、ゲルシーからは”それ、インフルエンザじゃないですか?もしくは歳。”と言われた。どっちにしてもカックリだ。こんな日はなるべくお客さん来ませんようにと心に祈る。だってぇ〜きついもんはきつい。で、お客さんのこない間はブランケットにくるまってソファーでゴロゴロする。BGMは大好きなREGGAE、ジャンルはロックステディにかぎる。あ〜しあわせ。熱のある頭と体になんて心地いいんだろう。過去にREGGAEが流れていたシーンが頭をよぎる。松屋8Fのラパス、TAXI、PINK FLAG、シーズンオフのサンセットもすんごく似合ってたよな。お客さん誰もいなくって植木や窓に心地いい風が流れる。まるでグラビアの中にいるような、すべてのものがスローモーションで動いているように感じた。あのころのサンセットにいれたことをすんごく誇りに思う。今となってはオーナーも居心地悪いみたいであんまり店にいないしね。(居心地いいのは早良区らしい(笑))ま、そんなことはどうでもよくって、最近流行のどかどかガンガンのREGGAEは苦手なんです、私。路地裏でジーさんが歌ってるみたいなのが好き。なので今回の映画Ruffn'Tuffはおなみだ頂戴物でした。やっぱグレゴリーはかっこいいです。あの人たちが奏でるスカが好きです。写真はこの映画の出演者高津くんが送ってくれたもの。生で、路地裏(といってもかの有名なオレンジストリート)で歌うグレゴリーの姿がみれたなんて羨ましいかぎりです。あぁ、音楽で風邪が治らんかねぇ〜
2007-04-09
逆転ホームラン
うちの店にときどき来るあるお客さん。
彼女は何年か前にご主人を失った。癌だった。そのことを宣告されたときには、その現実を受け止めるまでが苦しかったらしい。病院に入院させたことにも後悔していた。未亡人になってからは、まわりから助けられたり揶揄されたりの日々だった。すごく寂しかっただろう。
数年して彼女に彼氏ができた。あまり回りににどうどうと紹介できることのできないような彼氏だった。前科一犯。薬物中毒である。私の知るかぎり、その後二回警察に捕まった。その度に彼女は泣いて私のところにやってきて、どうしようと言ってきた。三度めのときにはいいかげんにしたら?と言ってみた。私は友人の 精神保健福祉士(精神科のカウンセラーのような人)にいろんなことを尋ねた。薬物依存にかぎらず、ほとんどの病気がその病気にかかった時間と同じくらい治るのにはかかるということ。本人が改心しなければ回りがどんなにがんばっても、直る見込みがないこと。万が一の逆転ホームランはほんのわずかな人にしか見られないこと。彼女は彼を助けているような自分に酔っていった。彼がイライラすれば自分もイライラし、喧嘩をふっかけられればこたえ、顔や体に痣ができている日もあった。この頃、彼女の精神も少しゆがんでいるのが私にはわかった。なぜに彼女はそんな彼に固執するのか私には不思議でならなかった。ただ、亡くなった前のご主人を助けることができなかったトラウマがあるのは感じる。何回か彼女と口をきかない時期もあった。どう接していいのかわからないし、遂には二人の喧嘩の仲裁に入らされ、夜中に、カーッとなった彼の方が私の家にやって来ることもありすこし私は怖くなってきた。なんせどんな行動をするかわかりませんからね。ただ、彼女にはあなたがどんなに献身的にしても彼が変わらないことにはどうしようもないよ、とは言っておいた。
言い放っては見たものの、ものすごく心配だった。そう、私は自分のことのように人のことを心配する癖がある。どうして彼女はあんな人生を棒に振りそうな人を敢えて選ぶのだろうか?とか。何のメリットがあるんだろうか?とか。やっぱり体?とか、いろいろ考えた。
しばらく音信不通の日が続いた、ある雪の降る日に彼女がやってきた。 涙をぽろぽろこぼしながら。ごめんねマコさん。あなたの言ううとおりだった。と彼女は言ってきた。私はホッとした。とりあえず彼女は現実に気がついた。自分が彼のペースに飲み込まれていたことを深く反省していた。精神病院に行って、同じような症状の患者を持つ家族との話し合いでそのことにやっと気がついたらしい。以前私や回りの人が話していたことはその当時の彼女には聞こえていなかったらしい。時間が経ち、やっと彼女の中に聴く耳ができていったらしい。
それからまた少し時間が経ち、ふと思い立ち彼女に連絡を取ってみた。彼は今のところ荒れることもなく、今までは続けることすら難しかった仕事に通ってるらしい。彼女はと言えば、相変わらず献身的に彼のことを支えている。しかしそのスタイルが変わった。すごくすごく長い道のりだったけど、彼女は今、 精神保健福祉士の国家試験を受けようと張り切っている。彼と似たような人やその家族を助けたいのだと言う。この仕事を見つけ出すきっかけを作ってくれた彼に感謝していると言う。自分もつらい経験をしてきたから、そのことを今苦しんでいる人に多少なりともアドバイスできたらうれしいと。現実をしっかり受け止め、もっと知識のある人の話を聞いたりそう言う人の書いたものを読んだりして、知識を高めていくこと。そして、素直に聴く耳を持つことが、いろんな困難を乗り越えていく鍵だね。と彼女と言い合った。
もしかしたら逆転ホームランが高々と打ち上げられる日が来るかもしれないな。と思った。
2007-04-02
三つ子の魂百まで
滋賀県には母の実家があった近江八幡と、弟たちが生まれる頃に預けられていたその市内のはとこのお家、島町がある。琵琶湖のほとり。ここのとこ回りでいろんなことが起こり、何回か聞いた、“お墓参りしとかんといかんよねぇ〜”という会話。気が付けば自分も長いこと行ってない気がしてきた。そうなると行きたくていきたくてたまらなくなるのが私の性分。すばらしいタイミングで、青春十八切符で出かける友人に声をかけてもらった。この歳にして夜行での移動。はたして耐えることができるのか?乗ってみたら何の事はない、老若男女、様々な人種が乗っているではないか!晴れて向かったわが古里、滋賀県近江八幡市島町。この場所、実は今、私が住んでいるところにあまりにもロケーションが似ている。田んぼの中のまっすぐな道の先の北側の山を背にして建物が建っているところ。この裏山を抜けると海(地元の人は琵琶湖をこうよぶ)に続く山道。どうしてこんなにも似たところを自分は選んだのだろうと不思議でたまらなくなった。三つ子の魂百までといううヤツだろうか。愛すべき古里であった。もちろん滞在中は毎日お墓参りに行って来ました。お墓参りっていいもんです。写真は近江八幡の八幡堀です。
2007-02-10
消えたマコ
やっぱりサヨコと遊ぶのはとびきり楽しい。同じ釜の飯を食ったせいもあるだろうが、どれだけ離れていてもどれだけ長く会っていなくても、話は泉のようにわき出し止まらない。そしていつだって飲み過ぎて大笑い。この前も呑んでこの話思い出した。東京にもだいぶなれて、サヨコには妹のアヤちゃんが私には弟のミノウとマコトがそれぞれ上京してきた頃。週末となればみんなで、大好きな西麻布にくり出していた。いたるところにクラブがあるその街。行きつけは328だった。ある日ぐてんぐてんに酔っぱらった私は記念撮影しま〜すと、張り切って丸椅子に腰掛けみんなにカメラを向けた。ポーズをとるみんな。その瞬間”あっ、マコが消えた!”みんなの視界からわたしは消えてしまったのです。何の事はない、椅子ごと後ろにヒックリコケていたのでした。ハハハ… 宴もたけなわ、みんなで一台のフローリアンに乗ってわが街巣鴨に戻りました。駐車場に付くととりあえず別れも惜しくそれぞれ煙草すったり缶コーヒー飲んだり。では、わたしもと車止めに座って一服しようと腰をかけました。その瞬間、またもや”あっマコが消えた!” たすけて〜車止めに見えたそれは大きな溝でした。座るつもりで勢いよくお尻からその溝に突っ込んだわたしでした。あぁ、一晩で二度もみんなの前から消えたわたしでした。
2007-02-05
TC
先日TCが、雑誌kyusyu eyesでお気に入りの店で紹介するからと言ってやって来た。TCは今、普通はなんてよばれているんだろう?彼は私がサンセットに入った時の先輩。バナナジュースの作り方を教えてくれた。といってもやつは高校生だったけど…サンセットの横のmoon lightの壁に絵を描いていた。私はサンセットの壁画を描いてるミノリちゃんのお手伝いをしているうちにサンセットでバイトをすることになっていた。私が入ったすぐにTCはサンセットをやめたような気がする。絵書いたり歌ったりしているTCだった。TCは今はKAOIになったブルーレベルの上でよく絵を描いていた。私もそこで作業したりしていた。博多駅前や天神にある焼き肉屋さん”カルビー大魔王”の店内の壁画も一緒に書きにいった。遊び半分で描いたから、店中がぼうぼう燃えてるみたいになってしまった。かわいいキャラクターだったカルビー大魔王のキャラを一夜にして閻魔大王みたいなものに変えてしまった。TCが描いた店の文字がその後ずっと使われるようになった。テキトーだったけど楽しかったなあの頃も。ところでやつはいくつになったんだろう? 写真は当時よく小さなパーティをしていたサンセットのDJブースと従食中のTC。オォ懐かしい面々。
2007-02-04
運命の人?
はたしてこいつと私の関係はなんだろうかとときどき思う。マサヒロがレインで働いてるころ、そう私が必死になってサンセットライブをがんばってた頃。レインには私専用の唐辛子をつけ込んだウォッカをガ用意してあったっけ。あの当時、仕事が終わっては松の湯かタコプルコかアカプルコかレインにいた。どの店も同じオーナーだった頃。だからこの店の従業員たちは私もこの会社のニンゲンだと思っていた子もいたくらい。よく朝まで呑んでたな。〆のご飯がなぜか久留米といううこともよくあった。これはたぶん誰かの誕生日でRIZにいった時のもの。そのあと吉牛大食い競争が行われる。各店舗に別れて一番食べたチームが勝ち。負けたチームは全員の牛丼代を払うといううもの。はきながらくってたよなぁ。アカプルコのオープンの時は飲み物が呑み放題っていわれたから一緒にいった女の子と二人でビールワンケース(24本)呑んだよなぁ。あのハチャメチャな頃を過ぎて、あの当時つるんでいた連中のなかでなぜか相変わらずマサヒロとだけ妙に仲良し。たけしコージが来福するといえば空港まで迎えにいってくれるし。トキ君のDJには朝まで付き合ってホテルまで送ったりするし。ラジオ聴きにきてといえば聴きにきてくれるし。5000円私から借りて家出はするわ。運命の人なんだろうかと最近ときどき思う。今年、はじめてあった友人はこいつだった!いや、かわいいんですよ。やつが。 10年前の写真よ文句ある?
2007-01-18
同級生
2007-01-12
春を迎える日本酒
=ある年のお正月、アニバーサリーで来てくださった浜口茂外也さんから頂いた日本酒の封を開けた。そのお酒は桐の箱に入っていてどう見ても大層なもの。呑んだお相手はパンダさんとヤスコちゃん。三人でおせち料理をつまみながらクピクピ。あっという間に三人で一升開けてしまった。その後二人はあっけらかんと帰っていき(家に戻ってワインまで呑んだらしい)へろへろになった私はすごすごと床に付いた。ふと目が覚めるとまわりが春のようである。“う〜ん、やはり新春。雰囲気も春やねぇ〜”と思ったのはつかの間。あ〜〜〜〜〜お風呂沸かしっぱなし〜〜〜〜!家中が春の陽気である。お風呂場にいたってはもう地獄温泉。ゆで卵できそう。春の陽気を感じた新春の日本酒失敗談でした。ほんと日本酒って気をつけて呑まなくっっちゃ!いや、今日、日本酒頂いたもんだからねぇ、ふと思い出したのよ。
2007-01-05
ヘクション→バリッ
先日実家の引っ越しを手伝っていたときにでてきたこの写真。ちょうど20年前、ディズニーランドに行って来た時のもの。写っているのはこのお正月にやって来てくれて、当時の同居人(勝手に私が居候していたと行った方が早いかな)のサヨコとキブンさん。そしてどうよこの私、今より体重は遥かに十キロ以上重い。顔が、輪郭が。この写真見て当時芸能人で誰に似てるって言われていたか思い出した。だれとおもう?ラサール石井。はっきり言って似ていると思う。よく食べてたなぁこの頃。すんごい貧乏だったので、ものすごく食べることに執着していて、食べれんでガリガリになったらどうしようと思っていたら見る見るうちに太っていた。くしゃみでズボンのファスナーを壊した経験ありです。ヘクション→バリッ!ってやつ。
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